『怪異譚』 御香宮の女房

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 伏見の里の御香宮(ごこうのみや)は神功皇后の御廟であり、立派な大社で、多くの人々が崇め奉っている場所でございます。宿願を持つ者たちは絵馬を奉納して祈りを捧げるのですが、その願いが叶えられないということはございません。

 そのため、多くの絵馬が神前に捧げられ、繋馬(つなぎうま)、挽馬(ひきうま)、帆掛舟、花鳥草木などや、中には美女の遊ぶ姿を描いたものなどもあります。

 さて、文亀年間(1501~1503)のことでございます。都の七条辺りに住む商人で奈良を行き来して商売をする者がおりました。九月の末、その者が商いを終えて、奈良から京都へ向かう途中の事です。

 次第に近づく日暮れに急ぎつつも、宇治の辺りを過ぎ、伏見の里につくころには人影も見受けられなくなり、山際には狐火が見え、草むらからは狼の遠吠えが聞こえ始めました。気味が悪くなった商人は御香宮に身を隠して夜を明かすことにします。

 拝殿で肘を枕にして横になっていた商人ですが、しばらくまどろんだ時でした。ふと、枕元に誰かの気配を感じました。驚いて起き上がると、そこには直衣(のうし)に烏帽子を着けた男が立っており、「今から、高貴な方がここでお遊びになるから、少し横にどいていなさい」と言います。

 一体どういうことかと思いながらも、商人が言われた通り、横に退くと身分の高い女房と思しき美女が一人の娘を連れて現れ、拝殿に上がってきて、燈火を掲げ、酒や料理を取り出しはじめました。

 女房が辺りを見回した時、そばにいた商人に気が付き、蹲っているのを見て、少し微笑んでこう言いました。

「そちらにいらっしゃるのは旅のお方ですか? 道に行き暮れ、慣れない場所で夜を明かすのは侘しいものだと聞きます。ご遠慮なさらず、こちらにきて一緒に遊びましょう」

 商人は恐れ多いと思いながらも、同時に嬉しくも思って近寄ってみると、その女房の容姿たるや、この世のものとは思えない美しさなのです。商人は昔話に伝え聞く、中国の楊貴妃や李夫人にも劣らないのでは、と考えるほどでした。

 一体、この御方は誰なのか。
 どのような縁で自分はこんな場所にいるのか。
 商人はまるで夢を見ているような心地でした。

 女房が召し使っている娘にしてみても、十七、八ほどの年齢で、その容姿は並々ならないものです。

 商人は夢見心地で、女主人に勧められるままに酒や料理を食べ始めると、娘が箜篌(くご:ハープのような弦楽器)で音楽を奏で始めます。興が乗ってきた商人は音楽に合わせてその当時流行っていた「波枕」という歌を歌い、大いに酒を飲んで酔っ払いました。

 そして、懐から花模様の白銀の手箱を取り出して、その女房に献上しました。さらに、娘の方にはべっ甲の琴爪一揃いを布に包んで与えたのですが、その時、彼女の手を握るとにこっと笑って握り返してきました。

 すると、女房はそれを目ざとく見咎めて、嫉妬の感情を露わにしました。


   あやにくに然(さ)のみな吹きそ松の風わが標結ひし菊の籬(まがき)を

    (そんな風に吹いてくれるな、松風よ。せっかく私の印を結んだ菊の間垣に)


 そう詠んだかと思うと、側にあった盃の台をとって、娘に投げつけました。皮膚が破れて血が飛び散ります。衣服に染み込んでいく鮮血を見て、ぎょっとして立ち上がった商人――その瞬間に、目が覚めました。

 全ては夢の中の出来事だったのでしょうか。

 しかし、翌朝、商人が神前に並べられた絵馬を見たところ、その中に美しい女房と箜篌を弾く娘、そして烏帽子の男が描かれているものがあるではありませんか。しかも、娘の顔には生々しい傷跡も見えます。

 夢で見たそのままの光景に、商人はきっとこの絵馬の中の人物たちが自分の前に現れたのだろうと思いました。


 しかし、この絵がどこの誰の手によって書かれたものなのか、今なお、不明のままです。






 こちらは浅井了意の「御伽婢子(おとぎぼうこ)」にあるお話です。

 いかがでしたでしょうか。

 商人の前に現れた謎の女性、その正体はなんと絵馬の中の人物だった。

 思わぬ展開の怪談でしたね。商人視点で感情移入して読むとハラハラドキドキして、かなり面白い作品ではないでしょうか。

 作者不明の絵馬という最後のオチを含めて、以前書いた「金弥と銀弥」のようにストーリー展開が優れた怪談と言えそうな気がします。

 しかし、当時から絵馬には様々な絵が書かれていたのですね。

 元々は、実際に神の乗り物として献上されていた馬の代用品として普及した絵馬。それが広く一般化される際に、書いても楽しく、見ても楽しいものとして、多くの人々のアイデアが盛り込まれていったものと思われます。

 このような怪談が作り出された背景には、当時の人々の参拝文化が大きく反映されているのではないでしょうか。
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